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三浦雄一郎氏アコンカグアプロジェクト2019
豪太日記「決断、その時!」(全2回)

 

 

【 1月20日(日) 】

早朝4時くらいからテントを揺さぶるほどの強い風、予報通りの強風、もう1日ここプラサ・コレラキャンプ(6000㍍)に停滞する予定だ。僕はみんなと朝食を食べ、トイレを済ませ外を歩いていると大城先生から呼び止められる。大城先生の顔はいつになく深刻だ。先生から、「昨日のお父さん、夜中にトイレに行った時の息遣い聞いた?」と聞かれた。テントは父の状態を代わる代わるモニターできるように、父と僕と大城先生の3人で同じテントを使用している。夜間中も父が睡眠時に使用している酸素(ボンベ)や父の状態を見るためだ。86歳の父にとってこの標高6000㍍でのテント生活そのものが大変で、身体を少しでも動かすこと、狭いテント入り口から出入りするだけでも大仕事なのである。大城先生のいった「昨日のトイレ」というのは夜間、外に出ずとも用をたせる通称「ピーボドル」(尿瓶)で排尿しているときの話しだ。

 

僕もその息遣いは聞いていて、父は激しく呼吸していた。大城先生は「あの調子ではいつ心肺停止になってもおかしくない」と話し始めた父の心臓を誰よりも知っているのが大城先生だ。出発2週間前にも、大城先生の勤める札幌大野病院にて精密検査を受けてきた。父の心臓はこれまでの不整脈に加え加齢による複数の衰えがある。特に心肥大や弁膜症、冠動脈の狭窄などはここ数年で状態が進行しており、酸素が少ない高所でそれらの症状を悪化させる血圧には十分注意を払い、これまで薬でコントロールして下げていた。

 

しかし、このような疾患がある中で、もし血圧が高くなると肺動脈の圧力が上がり肺水腫になりやすくなる。さらに肺機能の低下も見られているので、平地にいたときでも苦しそうに激しい息遣いを聞くことは往々にしてあった。それがここ6000mの標高の滞在で、身体を起こすだけでまるでマラソンを全力で走ったような父の息遣いは聞いていて心配していたが、それが心停止の可能性程とは思っていなかった。こちらに着いてから検討し決めたプランは父の体力を温存するため5580mまでヘリコプターで上がり、そこからプラサ・コレラキャンプへ登った。本来の高度順化は何度か標高の高い所の登り降りを繰り返し酸素の少なさに身体を慣らすものだが、同時に体力も使う。若い人であれば体力を残したまま順化を行えるが父の場合はその活動だけで体力を使い切り登山が終わってしまう可能性があった。

 

そこで考えたのがヘリコプターと補助酸素(酸素吸入)の使用だ。父は標高4200mのベースキャンプでは十分順応しているが6000㍍の順応はできていない。そのためここでの滞在で酸素吸入をしているが、それでも日常でちょっとした動作をするだけで呼吸が激しくなる。また自発的に酸素を止めてしまう。本人は高度順化を進めるためだと考えているのだろうが、現在の父の状態ではこれは危険きわまりない。父が自発的に止める以外でも機械の不具合によって酸素流出が止まることもある。現在の山の中での酸素吸入システムは二つある。一つはマスク方式で鼻と口を覆い被せ酸素の流量を調整する方法、もう一つは機械式でチューブを鼻に当て吸引するとセンサーが作動、酸素がその度に鼻に噴出する方法でオンディマンドシステムという。

 

マスクは登山行動中の使用では効率がいいが口と鼻が塞がれてしまう、普段の生活や睡眠時はオンディマンドシステムの方が鼻だけはなく口が開いているので喋ったり食べたりできるので好まれる。昨夜、そのオンディマンドシステムが止まった。父はすぐに僕を起こしたのだが、作動しない原因がわからずすぐにマスク方式に切り替えた。コレラキャンプに来てから2日目の朝ですでに父の状態について対応する場面が色々あった。大城先生は「これ以上標高を上げて豪太くんと私だけでお父さんを生かしておく自信がない」と話し始めた。確かに父には歩く体力と気力がある、ゆっくりと自分のペースで登り続けることができれば、さらに1日の標高差を現在のプラン通り行うことができたら頂上へ登ることができるだろう。しかし、それにはこれからの5日以上、標高6000㍍超に滞在しなければならない。1日6時間の行動(登山)であればそれ以外の18時間×5日間=90時間、常に父の状態を昼夜、二人だけで見ていくのはほとんど不可能だ。しばらく大城先生は黙り「私はこの時点でドクターストップをします」と宣言した。

 

 

[その2]1月20日(日)

それからが大変だった。まず登攀リーダーである倉岡さんに相談する。現在の父の状況を説明した上で父の下山までのロジスティック的な内容を検討する。父の状況は上部キャンプに行けば行くほど良くなるわけではなく、またレスキューの確率も下がり、その労力は飛躍的に上がると考え、すぐにニド・デ・コンドレス側(以下ニド)に下山するのがいいだろうということになった。ニドは僕たちが来たポーランド氷河側のベースであるプラサ・アルヘンティーナとは反対側にあるプラサ・デ・ムーラへ下りる方のキャンプ地で、ここプラサ・コレラからでも良く見える。こちら側のベースであれば風が安定していてリコプターもすぐに飛ぶことができるという。一番大きな問題はどうやったら父の山頂への気持ちを断たせるかだ。それは副隊長であり、息子である僕の問題だ。しかし、この事実を率直に伝えるしかない。意を決して、大城先生、平出カメラマンと一緒にお父さんのいるテントに入った。

 

最初に僕から伝えた-「先ほど大城先生と話したのだけど、この数日のお父さんの様子をみて、僕と大城先生二人ではこれ以上の高度で十分にお父さんの状態を見ることができないため、大城先生がドクターストップをしました」

 

すると父は驚きながらも、「大丈夫、大丈夫、全く問題ない」という。父にとっても突然の宣告、遠征がここで終わるには寝耳に水であろう、もしかしたら何かの冗談と思っているのかもしれない。しかし、僕がここ数日の経緯を父に話し「この標高でお父さんがほとんど自分のことができず昨晩のようにトイレに行くだけで息も絶え絶えになっているのを見るととても心配だ」というと「大丈夫、ともかく今日1日ここで過ごして、明日インディペンデシアまで登ってから考えよう」といった。

 

大城先生は「今の雄一郎先生の状態は、今この標高にいるだけで私と豪太くんで十分看ることができません、ましてやここから標高が上がると低酸素の危険度がさらに増します、環境も二人では十分対応することできなくなります、私としここでドクターストップといたします」とすると、さらに「大丈夫、大丈夫、問題ない。ともかくもう1日ここにいてから決めよう」と、なかなか引き下がらない。父の強い気持ちを断つにはもっと真剣に向かい合わなければいけない。僕は「それではドクターストップがかかった上で僕が登山を進めるわけにはいけません、大城先生も同じです。僕は降ります。例えば僕と大城先生がもう登山を中止したら、お父さんはガイド達と一緒に一人で登りに行ってください」と言った。長い沈黙… 目をつぶって何かを考えているようだ。五分、十分、二十分と何も誰も話さないまま重い空気が流れるこれだけでは全く埒が上がらない僕は思い切って「お父さんの気持ちは絶対に諦めることはないと思う、プラス思考でおおらかでいつでもどうにかなると思っている、その思いはいつも山の頂上を見ている、だけどお父さんの肉体はそうではないのだよ。お父さんの気持ちだけアコンカグアの頂上に行っても体が死んでしまったら残された僕たちはどうなるの、その体を引きずりながら下ろす僕たちの気持ちはどうなるの?」と自分の気持ちをぶつけるうちになんだか涙が出てきた。

 

父は「うーん」と言い「倉岡さんを呼んできてくれ」といった倉岡さんが来ると父は、「今、ここでの状況を整理すると二つあると思う、一つはこのまま自分が登山を続けるか、もう一つは私が降りて豪太と大城先生だけでもアコンカグアの頂上に登ること」と聞いた。倉岡さんは「このまま雄一郎先生が登り続けても危険度が増す上にレスキューが困難になります、もし現在、先生の様子がよくないのならここから降りるのが一番です」次に大城先生は、「雄一郎先生が降りるのなら、私は職務として一緒に付き添って山から降ります」そして、全員が僕を見た。「僕は… とりあえずニドまで下山しながら考えます」とにごした正直、僕は父が登山を断念したとき、僕が登るという選択技は考えていなかったなにせ、先ほどまで父の気持ちを断つために、僕は登らないと言ったばかりだ。父に山頂を諦めさせておいて、自分だけ登っていいものか正直判断に迷った。

 

(後編へ続く…)